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戦前派、戦中派、戦後派のひとたちの違い(第70日、つづき2)

19××年10月14日(土)晴れ


 ああ、眩しい!

 それにしても今日は本当に良い天気になった! 


 いつもの一人にまた戻った自分を感じた。

 さて、これから何処へ行こうか、何をしよう?



  岩手公園へとまた行った。

 日が温かい。ベンチに寝転がった。暫しの日向ぼっこ。 寝転がる癖がついてしまったようだ。気持ちが良い。しかし思い出したかのごとく時 たま吹く風が冷たい。ちょっと気に障る。残っていた黒パンをちょびちょびと齧りながら全部平らげてしまう。



         *   *

 既に正午を過ぎていた。午後からは何処か岩手市内見物でもしようか。もう一つの公園、高松公園へと行った。が、池があったというだけのこと。帰り際、その近くに市立図書館があったので、入ってみた。午後2時45分。



 ■読書に没頭

 本を一冊借り読み始めた。

 野坂昭如と五木寛之、両作家同士の“対論”であった。今は平成という年号を使っているが、この世には昭和十年代生まれの人たちもいて、戦争を体験した人とそうでない人、いわゆる戦前派、戦中派、戦後派という立場の違いをテーマとして打ち出されている。

 戦争を直接間接にも体験したか、しなかったか。その区別で世代の違いが形成されているとでも言いたいらしい。生きて来た状況が異なるゆえにその人のそれ以降の考え方、生き方においても異なったものが反映している、と。

 そう、一方には戦争を体験してきた人がいる。他方、戦争を体験したこともなく、のほほんと今日まで生きてきている人がいる。戦争を体験したか、体験していないか、 この違いが実は重大な違いなのだ、と。

 戦前、戦中、戦後。ぼくはもちろん戦後派。一夜の宿を提供してくれた人も戦後派。戦後派は無気力だと言いたいのだろうか。

 人生体験の違いから、一方が他方の意見・考え方を理解するのに困難を感じる。 他方もまた一方の考え方を理解するのが難しいと感じる。なぜか。同じ体験をして来ていないからだ、と。

 自分の体験に基づいた思いや感じ方は同じ体験を経ていない人にとっては分かり難いのではないのか、と。

 分かろうとする努力は必要だろう。理解しようと努めた過程で、お互いの共通点よりも相違点の方に注意が向けられてしまった次第だということか。お前は戦争を知らない、俺は知っている。相違点を見出して、自分はあんたとは違うのだと強調 したいらしい。

 頭の天辺が薄くなっていたあの人、今朝別れてきた人もぼくもわれらは皆戦争(つまり第二次世界大戦のこと)を知らない子供たちであった。

 閉館近くの午後4時45分までその本を読んでいた。午後の時間を有効に使った、と言うことにしよう。


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