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経験、体験をいかに言語化するか(第61日、つづき2)

19××年10月5日(木)曇り後うす曇   


 ■実際の経験を言語化するとは?

自分の体験等を何時かは言語して置きたいと思っている。全部が全部出来るかどうかは分からないが、この世に生きていた証としても残しておきたい。

言語化し難いこと、出来そうもないと思われること、それらを何とか言語化することで、その人の言語化能力の有無や稚拙さが窺がわれるということにもなろう。が、言葉を使用して究極的には”芸術作品”の創造を目指す人に課せられているであろう当然の勤め(努め?)であろうし、事後評価ともなろう。



勿論、言葉が作者の思い通りに働かないということもあろうし、言語で以ってしては表現出来ないこともこの世には存在するのかもしれない。映像の作品も存在する故だ。

我々(とは誰のことだろう?)にとって大切な点はそういう欠点または欠陥とでも言うべき事実を認識しながらも、それでも表現しなければならないという一種の義務を負わされている存在者として自己を規定しなければならない―― と、なんだか突然、分かったような分からないような、変な論理、ちょっと脇道に逸れはぐらかされる様な哲学的な一考察になってしまった。



 ■如何に歩いたか、それをどう言語化する?

 歩いた。

 歩き続けた。

 良く歩いた。

歩いた、と書く、単純に。  

 ぼくは歩いたのだ。

 うーん、これはちょっと気負い過ぎだ。だから何なのかだ。

 歩いたんだ。歩き捲くった。

 
 どのように歩き、また歩きながらどんなことを考え、そして歩いている時の周囲の状況はどのように刻々と変わっていったのか、書こうと思えばいくらでも書けるかのようだ。

 書こうと思えば無際限にあると言っていいだろう。でもそんなことはしていられない。日が暮れてしまう。歩くことは時に喜び、時に悲しみ、時に苦しみ、時に嫌み、時に決意であった。書くといっても取捨選択の連続でもあるのだ。



           *   *

 一旦言語化されたものを読み再度経験されたかのようになったものと原体験とは決して同じものとはならないだろう。疑似体験に過ぎない。現地にもう一度舞い戻って同じ行程を歩んでいるわけでもなし、ビデオカメラを回している訳でもなし、それで良しとしよう。

 でも、原体験に出来るだけ迫るように言語化しようとする、記述しようとする、そこをどのように微に入り細を穿つが如くに捉えようとするか。時間がない、力量がない、まあ、そういうこととなるのか。

 それでもこの作者が自分で確保している少ない語彙に肉迫し、言葉との言わば血みどろな格闘(ちょっと大袈裟、衒っている、空々しい、笑 )が展開されなければならない。まあ、建前はそういうことだと自分に言い聞かせながら書いているとしても、現実は如何なものか。言葉を弄んでいる。いや弄ばれているのか。 



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